リスクオフの円高はもう起こらないのか
~円の安全通貨性の変化と残された円高シナリオ~
2026年7月1日
● 2000年以降のVIXと円の対ドルリターンを見ると、VIXが25超の局面では円高確率はほぼ五分五分であり、「リスクオフの円高」は常に明確だったわけではない。
● 年代別には、2010年代に頻度と値幅の双方で円高バイアスが最も明確だった一方、2020年代にはその関係が大きく弱まっている。
● 背景には、リスクの発生源が金融・信用不安型から、地政学・資源高・通商問題型へ変化したことがある。こうしたリスクは日本の交易条件や貿易収支を悪化させやすく、円高の思惑が働きにくい。
● もっとも、米国株の本格調整、FRBのアグレッシブな利下げ、対外証券投資フローの鈍化や一部資金還流(レパトリエーション)が重なれば、円高シナリオは再び意識される可能性がある。
リスクオフの円高は消えたのか
前稿『新たな円安リスクか ~自動車産業の環境変化がもたらす構造円安リスク~』では、企業の海外投資や家計の対外証券投資といった資金フローの変化が生じる中、貿易収支の構造的な変化による「構造円安」の可能性を論じた。本稿では、その逆の円高リスクについて考える。
結論から言えば、「リスクオフの円高」は完全に消滅したわけではない。ただし、一時期のように、リスクオフ局面で機械的に生じるものではなくなっているというのが筆者の見方である。重要なのは、リスクオフの発生源がどこにあり、それが資源価格、日米金利差、対外投資フローを通じて円にどのように波及するか、ということであろう。
かつて、2000年代半ばに外国為替証拠金取引(FX取引)をはじめキャリートレードが広がった時期には、低ボラティリティ状況のいわゆる「リスクオン」で低金利通貨の円を売り、高金利通貨を買い、そしてボラティリティが上昇し、いわゆる「リスクオフ」になると、その巻き戻しで円買いが進むという見方が定着した。2010年代に入っても、金融市場では、市場の緊張が高まると、「リスクオフの円高」が警戒された(図表1)。
足元、市場がリスク要因と警戒していたイラン紛争は、米国とイランがひとまず停戦で合意したが、今後も金融市場において、リスクの火種が尽きることはないだろう。ちなみに、今回のイラン紛争では、市場がトランプ大統領のディール優先の姿勢や、一部で囁かれるTACO(トランプ大統領が強硬姿勢の後に最終的に譲歩する傾向)を見極めようとする思惑もあったと見られるが、主要地域の株価の調整は一時的に終わり、紛争が続く中でも上昇に転じた。為替市場では円高も進展しなかった。それでは、今後も「リスクオフの円高」に備える必要はないのだろうか。これが本稿の問題意識である。
VIX高水準局面で見た円の反応
そもそも、「リスクオフによる円高」はどの程度生じているのか。実際のデータで観測してみよう。リスクオフの明確な定義は存在しないが、本稿では、グローバルな投資家のリスク許容度を測る上で市場参加者が最も重視する共通の物差しであるVIX(米国株の予想変動率)の水準をリスクオフの代理指標として用い、主に円の対ドルリターンとの関係を観測した。なお、スイスフラン、ユーロ、DXYについても補助的に確認しているが、本稿の問題意識は円高リスクにあるため、以下では円の結果を中心に取り上げる(図表2)。
具体的には、主にVIXの値が25超をリスクオフ局面として扱い、より強いストレス局面としてVIXの値が30超のケースも併せて確認した。もちろん、VIXは米株市場の予想変動率であり、すべてのリスクオフ、特に局地的な地政学リスクなどを完全に捉える指標ではない。しかし重要なのは、VIXが高水準となるようなグローバルな市場ストレス局面が実際に生じた際、そのリスクの発生源の違いによって、円への波及経路がどう変化したか、という点である。
2000年1月~足元、2026年6月26日を振り返ると、VIXが25を超えた日が1579日、うち円の対ドルリターンがプラスとなった日は788日で、割合にすると49.9%、つまり円高確率はほぼ五分五分であった。なお、円の対ドルリターンについては、円高方向の変化をプラスとして表記している。
一方、VIXが30を超えた日は787日で、このうち円のリターンがプラスとなった日は420日、割合にすると53.4%であった。単純な二項検定、かつ片側検定で見れば、VIXが30を上回っている局面では、円高確率は5%水準で有意に5割を上回っている。このため、VIXのリスクオフとしての閾値を30とすれば、「リスクオフの円高」という仮説は一定程度支持されることになる。
なお、VIXが高止まりする局面では同一イベントが複数日にわたってサンプルに含まれるため、各観測が完全に独立しているとは限らない。このため、統計的有意性の解釈には一定の留保が必要である。ただし、そうした点を考慮し、週次データで観察した場合でも、結果は大きく変わらなかった。
頻度だけでは見えない円高リスク
発生頻度だけでは、リスクオフ局面における円の反応を十分に捉えきれない。円高となる日数が多くても円高時の値幅が小さければ、円高リスクは限定的と言える一方、円高となる頻度が低くても円高時の値幅が大きければ、リスク管理上は無視できない。そこで、VIXが25を超えた局面について、円高日と円安日の平均変化率を見ると、2000年以降全体では、円高日の平均上昇率が+0.577%、円安日の平均下落率が-0.519%となった。円高となる頻度はほぼ五分五分であるものの、値幅面では円高日の平均が円安日の平均をやや上回っており、VIXが25超の局面では、全体としてはごく緩やかな円高バイアスが確認される(図表3)。
2010年代に最も明確だった円高バイアス
とはいえ、多くの市場参加者は、リスクオフ局面ではもっと高い確率で円高が生じてきたと想像していたのではないだろうか。「リスクオフの円高」は金融市場におけるいわば都市伝説だったのだろうか。データを2000年代、2010年代、2020年代と、年代別に区切って見ると、異なった景色が見えてくる。
VIXが25を上回った日について、円が対ドルで上昇した日の割合を年代別に見ると、2000年代が49.9%、2010年代が58.8%、2020年代が44.3%である。同様の割合をVIXが30を上回ったケースについて見ると、2000年代が55.1%、2010年代が60.6%、2020年代が45.4%である。上述同様に、VIXのリスクオフの閾値を30とするなら、単純な二項検定、かつ片側検定では、2000年代、2010年代ともに5%水準で有意に50%を上回っており、「リスクオフの円高」の仮説が正しいことになる。
もっとも、55~60%という水準は、リスクオフ局面で必ず円高になることを意味するものではない。むしろ、2000年代や2010年代においても、「リスクオフの円高」は明確な法則というより、円高方向へのバイアスとして理解すべきだろう。それでも、平時と比べてリスクオフ局面で円高方向のバイアスが存在していたということであれば、投資家の印象にもある程度沿うのではないだろうか。ちなみに、対照的に、VIXのリスクオフの閾値を25とすると、2020年代は「リスクオフで円安」が5%水準で統計的に有意となる。
値幅を年代別に見ると、VIXが25超の局面において、2000年代は円高日の平均上昇率が+0.622%、円安日の平均下落率が-0.597%とほぼ対称であり、円高バイアスは明確ではなかった。一方、2010年代は円高日の平均上昇率が+0.532%、円安日の平均下落率が-0.431%となり、頻度と値幅の双方で円高方向のバイアスが確認される。対照的に、2020年代は円高日の平均上昇率が+0.519%、円安日の平均下落率が-0.425%と、円高日の値幅はなお円安日を上回るものの、円高となる頻度が44.3%に低下したことで、平均的なリターンはほぼ中立となっている。したがって、2020年代の変化は、円が明確にリスク通貨化したというよりも、従来の「リスクオフの円高」バイアスが大きく弱まり、中立化したものと捉えるべきだろう。なお、より強いストレス局面であるVIXが30超の局面で見ても、2010年代に円高バイアスが最も明確であり、2020年代には平均的な反応がほぼ中立化するという傾向は大きく変わらない。
リスクオフの性質が円の反応を左右する
「リスクオフの円高」は2000年代、2010年代に比較的明確に観測された一方、2020年代にはむしろその関係が大きく弱まっている。それはなぜだろうか。
重要なのは、リスクオフの背景に何があるか、ということだろう。リスクオフで円高になるかどうかは、リスクオフの大きさだけではなく、その発生源と波及経路に依存する。2000年代に関しては、冒頭で述べた通り、キャリートレードが広がった時期で、「リスクオン」では低金利通貨の円を売り、高金利通貨を買い、そして「リスクオフ」になると、その巻き戻しで円買いが進んだ。そして、「リスクオフ」を引き起こす要因は、米同時多発テロ(2001年)、米企業の不正会計問題(2002年)、リーマンショック(2008年)など、主に米国発のリスクが中心であったこともあり、円がリスクオフの受け皿になったのだと見られる(図表4)。
ただし、上述の通り、VIXが25超の局面における2000年代の円高バイアスは必ずしも明確ではなかった。一方で、VIXが30を上回るより強いストレス局面では、2000年代にも円高となる頻度が高まっており、強いリスクオフ局面では円が受け皿となる構図となっていたと見られる。
2010年代は、欧州債務危機(2010年)、米国債格下げショック(2011年)、チャイナショック(2015年)、BREXIT(2016年)など、欧州や中国、米国の信用不安・政治リスクが金融市場のリスクの源泉となったことで、消去法的に円がリスク回避の受け皿として選ばれやすかった面があっただろう。さらにトランプ大統領の登場(2016年)も、米国の政治リスクを意識する局面で円を受け皿とする動機になった可能性がある。東日本大震災(2011年)は日本発のリスクではあったが、震災に関連した保険金の支払いや復興費用のために海外資産を国内に戻す、いわゆるレパトリエーションへの警戒で、市場ではむしろ円買いの思惑が生まれた。
2020年代に円高バイアスが弱まった理由
2020年代に入ると、状況は転換した。リスクの源泉が、米欧発の債務危機や信用不安といった金融型から、ウクライナ問題や中東問題といった地政学型、あるいはコロナや米国を中心とした通商問題といったグローバル型へと大きく傾いた。この違いは、円にとって決定的な意味を持つ。金融型のリスクオフでは、経済の悪化で、資源価格が下落し、エネルギーを輸入に頼る日本の交易条件は改善する。一方、地政学型のリスクオフは資源高をともなう。原油や天然ガスが急騰すれば、日本の貿易収支は悪化する。通商問題も、日本の貿易収支を悪化させる要因となる。このため、地政学問題や通商問題を起点としたリスクオフのもとでは、円高の思惑は働きにくい(図表5、6)。
残された円高シナリオ
それでは、今後、リスクオフで円高になる可能性が低いと言ってよいのだろうか。必ずしもそうではないだろう。米国発の本格的なリスクオフが発生すれば、「リスクオフの円高」となる可能性はある。皮肉にもここで効いてくるのが、前稿で円安要因として位置づけた NISA マネーであろう。平時においては、この NISA による多額の外株投信購入フローが円売りの源泉となっている。しかし、もし米株が本格的に調整すれば、これまで円安を牽引してきたこの巨大な資金フローが変調をきたし、今度はドル円相場の需給バランスを円高方向へと急変させるトリガーに変化する可能性がある。
もっとも、NISA資金は長期投資を前提とした性格が強く、米株調整時に直ちに大規模な解約・円転が生じるとは限らない。むしろ、下落局面で押し目買いが入る可能性もある。ただし、米株の調整が深く、長期化する場合には、これまで毎月機械的に生じていた巨額の新規買い付けのフローが細り、それだけでも、ドル円の需給バランスは変化し得る。さらに、一部の投資家による解約・円転が徐々に発生すれば、円高方向の動きをさらに増幅する要因となるだろう。米国発のリスクオフに対応し、FRBがアグレッシブな利下げに踏み切れば、現状では効かなくなっているように見える日米金利差のチャネルも復活し、円高をさらに加速させる可能性もある。
問題は、米国発の本格的なリスクオフが生じるのかということである。この点で、米国金融市場への資金集中が続くかが大きな鍵となる。米国は世界のプラットフォーム型ハイテク企業を抱え、AI・半導体を中心とする成長期待が資金を惹きつけている。AIが生産性を構造的に押し上げ、企業収益の拡大につながるのであれば、米株高と円安基調は維持されやすい。逆に、AI期待が失望に変われば、米株調整、FRB利下げ、対外投資フローの鈍化が重なり、円高シナリオが現実味を帯びるだろう。
介入による円高反転には限界も
米国発以外に、円高をもたらす経路はないのか。当局による円買い介入はどうか。筆者個人は、当局の為替介入の効果に肯定的な見方をしているが、現局面では効果が限られる可能性もあると見ている。理由は、投機筋、NISAマネー、構造円安という円売り圧力がある中では、介入による一時的な円高が、むしろ円売りの機会と受け止められやすいためである。実際、政府・日銀は2026年4月末から5月初にかけて、財務省公表ベースで約11.7兆円規模の円買い介入を実施したが、円安の勢いを緩めるにとどまり、円安トレンドを反転させるには至らなかった。
リスクオフの発生源を見極める局面に
今後のドル円相場の見方については、基本は円安ドル高が基本観だが、米株高が過熱してくれば、米株調整を起点とする円高反転のリスクへの警戒も徐々に強めていく必要があるということになる。重要なのは、「リスクオフなら円高」と機械的に考えることではなく、リスクオフの発生源がどこにあり、それが日本の交易条件、日米金利差、対外投資フローにどのように作用するかを見極めることである。「リスクオフの円高」はなくなったというわけではないだろう。
マクロ調査グループヘッド
渡邊 誠



